ログイン夕方の常世荘は、あまりにも普通だった。七刻女学校のように山の闇へ隔離されているわけでも、立入禁止の鎖が巻かれているわけでもない。古い住宅街を横切る細い道路には買い物帰りの自転車が走り、少し離れた公園では小学生らしい子どもたちがボールを追いかけている。夕食の支度をしている家から焼いた魚の匂いが漂い、犬を連れた老人が常世荘の前を何の警戒もなく通り過ぎた。その日常の中央に、築四十年以上の二階建て木造アパートは何食わぬ顔で建っていた。
黄ばんだ外壁には雨垂れの黒い筋が幾つも走り、鉄製の外階段は錆びて赤茶色に変色している。二階へ渡る廊下の手摺には住民が干した小さなタオルが揺れ、建物脇の駐輪場には子ども用の自転車まで置かれていた。昨夜までいた廃校のような、近づくだけで人を拒絶する圧迫感はない。だからこそ澪には怖かった。七人の女性が消えた部屋のすぐ下で、誰かが普通に夕飯を食べ、風呂を沸かし、明日の仕事を考えながら暮らしている。
「写真より、ずっと普通だね」
奈々香が小さく言った。借りた衣服へ着替えてはいたものの、左耳にはまだ薄いガーゼが貼られており、疲労の残る顔にはほとんど化粧がない。常世荘を見上げるたび、無意識に髪を耳の後ろへ押し込んでいた。
「普通の建物ほど、住み続ける理由ができる」
蓮司が答えた。黒いジャケットの下には調査用の薄いベストを着込み、手には小型の計測器と書類鞄を持っている。
「先に言っておくが、俺は呪いに付き合うために来たわけじゃない。妹がここへ来た可能性を調べる。それだけだ」
「七日間は泊まらない?」
奈々香が訊くと、蓮司は視線だけを向けた。
「要求した相手が人間なら、従う理由はない」
「七刻女学校でも、それで済まなかった」
悠斗が低く返した。
「だから今回は、何が人間の仕掛けで、何が違うのか最初から切り分ける」
朔が常世荘の屋根と外壁へ視線を走らせる。仕事用の小型カメラは胸元へ固定されていたが、七刻女学校を出てから澪はその赤い録画表示を見るたびに、胸の内側へ小さな棘が刺さるようになっていた。澄花の楽譜に残されていた一文は、まだ手帳の中へ挟んだままである。
朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。
見せるべきかと何度も考えた。だが、透を殺す装置に朔の技術が使われていたこと、八年前のカメラと同じ識別番号で今夜の映像が記録されていたことを思うと、どうしても手帳を開けなかった。隠している自分を卑怯だと思う一方で、八年前に全員が少しずつ何かを隠した結果、澄花の失踪が八年間も歪んだままになったことも分かっていた。それでも今は、誰か一人へすべてを預ける方が怖かった。
「先に住民へ聞く」
蓮司が一階の端の部屋へ向かった。
表札には古い名字が残っている。呼び鈴を押すと、しばらくして内側から足を引きずる音が近づいた。扉はチェーンを掛けたまま数センチだけ開き、白髪の老人が顔を覗かせる。
「御影と申します。建物調査の件で少しお話を伺いたいんですが」
「管理会社なら何度も来た」
「今日は管理会社ではありません。二階の二〇三号室について――」
部屋番号を聞いた瞬間、老人の目が変わった。
半分眠そうだった瞼が大きく開き、澪たち六人を順番に見る。老人の視線は最後に悠斗の持つ管理会社の書類で止まった。
「知らん」
扉を閉めようとする。
「過去に住んでいた女性のことで」
「知らんと言っとる」
「壁から声がすると相談していた記録があります」
老人の指が止まった。だが次の瞬間には、扉が強く閉じられていた。内側で鍵が一つ、二つと続けて掛かる。
奈々香が声を潜める。
「今の、絶対知ってるよね」
「知っていても話したくない理由がある」
蓮司は無理に呼び鈴を押さず、次の部屋へ移った。
二人目の住人は四十代ほどの女性だった。二〇三号室と聞くと、最初こそ露骨に嫌な顔をしたが、蓮司が警察へ提出する調査資料だと説明すると、扉を身体一つ分だけ開いた。
「あの部屋、また貸すんですか」
「その予定ではありません」
「なら、入らない方がいいですよ」
「理由を教えてもらえますか」
女性は廊下の奥を気にするように首を伸ばし、二階を見上げた。
「夜になったら廊下へ出ないことです」
それだけだった。
「何か出るんですか」
奈々香が訊く。
女性は彼女を見た。
「見ても、部屋に戻ればいいんです」
「何を?」
「戻らない人がいるから」
澪の背筋が冷えた。
「女性が消えたことを知っていますか」
蓮司が訊くと、住人は唇を固く閉じた。
「私から聞いたって言わないでください」
「約束します」
「あの部屋に入った人が、夜中に廊下を歩いてるんです。裸足で。最初は住んでる人だと思ってた。でも、何日かすると別の女になってる」
美月の眉が寄る。
「顔は見ましたか」
「見ません」
「どうして」
「見た人がいなくなったから」
女性はそこで扉を閉めた。今度は呼び止めても返事がない。
錆びた外階段を上ると、鉄板が足の下で低く鳴った。夕方の空は赤みを失い始め、住宅街の家々には一つずつ灯りが点いている。二階廊下の床は古いコンクリートで、二〇三号室は突き当たりから二番目にあった。玄関扉は塗装の剥がれた薄茶色で、郵便受けには何も入っていない。
悠斗が管理会社の鍵束を出した。
「本当に俺は担当じゃない。マスターキーを借りるのにも、今朝からかなり揉めた」
「警察には?」
美月が訊く。
「常世荘へ行くことは伝えてある。二〇三の過去記録も再確認させてる。ただ、今の段階じゃ立入禁止にする理由がない」
「七人失踪していても?」
「全部別件扱いなんだ。死亡事件じゃない。所有者も何度も変わってる」
悠斗は鍵を選び、錠へ差し込んだ。
一度引っかかる。
少し角度を変えると、金属が小さく鳴った。
扉が開いた。
澪は無意識に息を止めていた。
玄関には女性の靴も、人形もない。
古い部屋だった。
六畳の和室が二つ。小さな台所。浴室とトイレ。壁紙の下半分には薄い染みがあるものの、想像していたほど荒れてはいない。畳も数年前に交換されたようで、色褪せてはいるが腐っていなかった。長期間募集を止めている部屋とは思えない程度には掃除されている。
「人形は?」
奈々香が玄関から中を覗く。
写真では、返し雛が畳の中央へ座っていた。
今は何もない。
「まず全室撮る」
朔がカメラを回す。
「誰も単独で動くな」
悠斗は玄関扉を閉めず、開放したままストッパーを噛ませた。蓮司は窓の位置と壁厚を確認し、美月は浴室や押し入れの中を照らしていく。
澪は写真を画面に出し、実際の和室と見比べた。
畳の目。
壁の染み。
窓。
同じ部屋だ。
写真に写っていた女の顔が覗いていた壁もある。
そこへ近づく。
染みしかなかった。
触れると乾いている。
「写真はここ」
蓮司が隣へ立った。
「壁厚は?」
「外から見た構造と合わない」
小型の計測器を当てる。
「この部屋、図面より十五センチ以上狭い」
「壁の中に空間がある?」
「可能性はある」
澪は七刻女学校の管理通路を思い出した。
壁の内側から七人を見ていた穴。
ここでも同じことができるのだろうか。
押し入れを調べていた美月が、突然動きを止めた。
「来て」
声が低い。
五人が集まる。
二つある押し入れの下段。
布団も荷物も入っていない。
奥だけが暗い。
美月が懐中電灯を向ける。
赤いパンプスが並んでいた。
一足ではない。
七足。
踵をこちらへ向け、互いに触れない程度の間隔で、几帳面に横一列へ置かれている。
「何、これ……」
奈々香の顔から色が消えた。
すべて女性用。
色は同じ赤だが、形は少しずつ違う。細いヒール。太いヒール。装飾のあるもの。安価そうな合皮。サイズも揃っていない。
七足。
美月は手袋をつけ、一番左のパンプスを持ち上げた。
「中に文字がある」
インソールの踵側。
薄く油性ペンで名前が書かれていた。
蓮司がすぐ資料を開く。
「その名字」
失踪者一覧を指で追う。
「あった」
十五年前、最初に二〇三号室から失踪した女性だった。
「これ、本人の靴?」
澪が訊く。
「記録上は」
蓮司の声が硬くなる。
「失踪後、警察が室内から押収した靴の特徴と一致する」
「押収した?」
悠斗が顔を上げる。
「じゃあ何でここにある」
「それを訊きたいのは俺だ」
蓮司は残る靴も一足ずつ確認する。
二足目。
三足目。
すべてに名前がある。
七人。
常世荘二〇三号室から消えた七人の女性。
その全員の靴が、押し入れへ戻されている。
「警察が持っていったなら」
奈々香が後ずさった。
「誰かが返したってこと?」
「証拠品が正式に返却された可能性は」
美月が蓮司を見る。
「一部はある。でも、この七足全部が本人不在の部屋へ戻される理由はない」
奈々香が腕を擦る。
「返すもの……」
澪も同じ言葉を考えていた。
七刻女学校では、八年前に持ち出した六つの品を返した。
ここには、失踪した七人の靴が返されている。
まるで部屋そのものが、住んだ女性の所有物を集め続けているようだった。
朔はパンプスではなく、押し入れの奥板へ懐中電灯を向けた。
「板が新しい」
「どこ?」
澪が近づく。
「周囲より色が違う。釘も新しい」
朔が指の関節で奥板を軽く叩いた。
こん。
鈍い音。
少し右へずらす。
こん。
さらに中央。
こぉん、と空洞の響きが返る。
「向こうに空間がある」
蓮司も壁厚を測る。
「少なくとも十センチ以上」
「外せる?」
悠斗が工具を出す。
「先に撮る」
朔は板全体を記録し、釘の位置を接写した。
澪はその横で、壁の奥へ耳を向けた。
何も聞こえない。
住宅街の音は窓の外にある。
自転車のベル。
遠くの車。
子どもを呼ぶ母親の声。
その日常が、薄い壁一枚を隔てている。
朔が一本目の釘へ工具を掛けた。
反対側から音がした。
コン、コン。
二回。
全員の動きが止まった。
「今の」
美月が押し入れを見る。
奈々香は口元を押さえている。
澪の心臓が速くなる。
朔は工具を下ろした。
板へ指を当てる。
そして、自分から二回叩いた。
コン、コン。
沈黙。
数秒。
反対側から。
コン、コン。
同じ速さ。
同じ回数。
「誰かいる」
澪が呟いた。
「人間なら、救助が必要かもしれない」
美月が押し入れへ膝をつく。
悠斗が声を張った。
「誰かいるんですか!」
返事はない。
「聞こえてるなら、もう一度叩いてください!」
何も返ってこなかった。
代わりに。
きい。
爪で木を引っかく音がした。
上から下へ。
ゆっくり。
きい。
澪の掌の古傷が疼いた。
八年前の理科準備室。
閉じた扉の向こう。
澄花の爪。
「開ける」
朔が言った。
蓮司が止める。
「待て。向こうの構造を確認する。板を外した瞬間に崩れる可能性がある」
「人がいるなら時間を掛けられない」
美月が返す。
「呼吸は聞こえる?」
澪は耳を近づけた。
最初は何も分からなかった。
古い木の臭い。
押し入れに溜まった乾いた埃。
自分の呼吸。
その奥。
ひゅう。
かすかな息がある。
一人ではないようにも聞こえた。
「いる」
澪は顔を上げた。
「呼吸してる」
奈々香が入口まで退いた。
「人?」
答える前に、板の向こうで何かが動いた。
衣服が壁へ擦れる。
そして。
女の声がした。
「出して」
澪の背中から、汗が一気に引いた。
声は若くも老いても聞こえなかった。
喉が乾ききり、長い間使われていなかったように掠れている。
美月が板へ手をつく。
「聞こえます。今、開けます。怪我していますか?」
返事はない。
「何人いますか?」
沈黙。
奈々香の呼吸が乱れる。
朔は工具を握り直した。
その瞬間、板の向こうから別の女の声がした。
「開けないで」
最初の声とは違った。
少し高い。
続いて、三人目。
「見つかる」
澪たちは誰も動けなかった。
押し入れの奥。
人一人が入れるかどうかも分からない壁の向こうから、何人もの女が一斉に息を殺した。
最後に、すぐ板一枚を挟んだところで、爪が三度だけ木を叩いた。
コン。
コン。
コン。
そして、最初の女が泣きそうな声で囁いた。
「人形が来る」
澪の布団に座った返し雛は、それから一度も動かなかった。 朔のカメラには台所の透明ケースへ収められた姿が映り続けているのに、現実では赤い着物の人形が枕を背にして両手を膝へ置いている。 カメラを別角度から向けても結果は変わらず、液晶の中では空のはずのケースに人形があり、布団には何も映らなかった。 奈々香のスマートフォンだけはさらに違い、布団の上へ制服姿の少女を映したまま、返し雛そのものを一度も捉えなかった。「返す場所は、ここじゃない」 澪は、布団の脇に落ちていた紙をもう一度読んだ。 澄花の筆跡に見える一行は、それ以上の手掛かりを与えない。 二〇三号室へ来いと指示され、人形までここへ現れたのに、部屋そのものが目的地ではないのなら、残るのは壁の奥か床下、あるいは図面に存在しない空間だった。 返し雛へ触れることは避け、六人は二〇三号室を改めて調べ直すことにした。 蓮司は建物図面と実測値を照合し、悠斗は管理会社から送られてきた古い改修記録を追い、美月は過去の失踪者が残した相談記録を一件ずつ見直した。 朔は押し入れの空洞と新しい監視設備の接続先を調べながら、澪へ単独で動かないよう何度も念を押した。 昨夜、枕元まで裸足の足跡が来ていたことを考えれば当然の注意なのに、その言葉を素直に安心へ変えられない自分が澪には苦しかった。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 胸元の手帳に隠した澄花の言葉が、カメラと現実で異なる返し雛を見るたび鮮明になる。 朔自身が映像を偽っているのか、それとも澄花が別の意味を伝えようとしていたのか、まだ判断できない。 だから澪は人形から視線を外し、二〇三号室の中で、まだ詳しく調べていない場所を探した。 浴室は玄関脇の細い通路の奥にあった。 古いユニット式ではなく、後から改装されたらしい小さな洗い場と深い浴槽があり、隣に幅の狭い洗面台が設けられている。 蛇口の金属には白い水垢がこびりつき、照明をつけても薄暗い。 洗面台の上にある長方形の鏡は全面が曇り、端の銀引きが黒く腐食していた。「ここも壁が厚い」 蓮司が計測器を当てた。 洗面所と隣室を隔てるだけにしては二十センチ近い誤差があり、押し入れ側と同じく壁内に空間がある可能性が高い。 悠斗は改修図面を開いたが、浴室裏には給排水管用の空間しか記載され
藤崎杏奈の電話は、それから何度かけてもつながらなかった。 呼び出し音すら鳴らず、機械的な案内だけが同じ文句を繰り返す。 蓮司は杏奈の現在住所と、先ほどまで通話が成立していた時刻を警察へ伝え、安否確認を依頼した。 常世荘から数百キロ離れた町だと説明すると、管轄をまたいで確認することになると言われたが、蓮司は引かなかった。「人形の話はしないの?」 奈々香が低い声で訊いた。 顔色はまだ悪く、押し入れの前へ落ちた赤い組紐の切れ端を避けるように壁際へ寄っている。 蓮司は電話が切れる直前、玄関の中へ見覚えのない日本人形が現れたと杏奈本人が話していたことまで伝えたと答えた。 信じるかどうかは警察の判断だが、安否確認に必要な情報は一つも省かないという。 端末を置いた蓮司の手は、机へ触れる直前にわずかに力んでいた。 妹の失踪を八年間追ってきた彼にとって、杏奈は初めて突き止めた生存者であり、しかも事件翌日の澄花を見た証人だった。 その杏奈まで消えれば、また一つ澄花へつながる声が失われる。 澪は彼の焦りを言葉ではなく、何度も通話履歴を確認する指先から感じ取った。 昼を過ぎた常世荘二〇三号室には、朝よりも明るい光が入っていた。 窓の外では洗濯物が揺れ、階下から掃除機の音が響いてくる。 昨夜、押し入れから澪の枕元まで裸足の跡が続いていた部屋とは思えないほど、生活の音が近かった。 それでも奥板を外したままの押し入れだけは光を吸い込む穴のように暗く、剥き出しの配管と断熱材が奥へ沈んでいる。「杏奈さんが見た男も、こういうところにいたんだよね」 美月が壁内部へ懐中電灯を向けると、朔は十二年前なら今より奥まで通れた可能性があると答えた。 午前中に外したスピーカーと小型カメラは透明袋へ封じてあり、空洞に残しているのは自分たちが設置した監視用カメラだけだった。 悠斗が昨日調べた時点では途中をコンクリート壁に塞がれていたと確認すると、蓮司は隣の二〇二号室側からも構造を測るべきだと立ち上がった。 そのとき奈々香の息が止まり、全員が彼女の視線を追った。 狭い台所には古い流し台と小さな冷蔵庫があり、壁際には使われていない木製の低い椅子が一脚置かれている。 その椅子の上に、いつの間にか日本人形が座っていた。 黒い髪、白い顔、古びた赤い着物、小さな両手を膝の上へ揃え
朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。 夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。「写真が撮られた時間と重なる」 朔は端末の時刻を照合しながら言った。 眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。 澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。 昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。 午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。「七人という前提から見直す」 蓮司が言った。 昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。「この三人」 蓮司が赤い線を引く。「警察の行方不明者データに一致しない」 悠斗が資料を覗き込む。「届け出が出てないだけじゃないのか」「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」 澪が顔を上げた。「じゃあ、生きてる?」「少なくとも転居手続きはされている」「本人が?」「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」 美月も資料へ近づいた。「家財は残したのに、住民票だけ移した?」「そうなる」 奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」「普通なら」 蓮司の声は低かった。 七人のうち、本当に行方が分からなくなって
朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。 夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。「写真が撮られた時間と重なる」 朔は端末の時刻を照合しながら言った。 眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。 澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。 昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。 午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。「七人という前提から見直す」 蓮司が言った。 昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。「この三人」 蓮司が赤い線を引く。「警察の行方不明者データに一致しない」 悠斗が資料を覗き込む。「届け出が出てないだけじゃないのか」「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」 澪が顔を上げた。「じゃあ、生きてる?」「少なくとも転居手続きはされている」「本人が?」「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」 美月も資料へ近づいた。「家財は残したのに、住民票だけ移した?」「そうなる」 奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」「普通なら」 蓮司の声は低かった。 七人のうち、本当に行方が分からなくなって
押し入れの奥板は、外から見るより新しかった。表面には古い木材に似せた染みと擦り傷がつけられているが、朔が釘へ懐中電灯を寄せると、頭の縁にはほとんど錆がなかった。蓮司は壁厚を測った計測器を床へ置き、板の左右を指で叩いて空洞の広がりを確かめる。さっきまで向こう側から聞こえていた「出して」という女の声も、爪で木を引っかく音も、今は完全に消えていた。「外す。板が倒れるかもしれないから離れて」 朔が工具を差し込み、蓮司が反対側を押さえた。悠斗は押し入れの前へ古い毛布を敷き、美月は奈々香を畳の中央まで下がらせる。一本目の釘が抜けると乾いた金属音が落ち、二本目、三本目と続くたび、壁の向こうから冷たい空気が細く漏れ始めた。最後の固定部を外して二人が板を手前へ引くと、湿った断熱材と古い配管の臭いが六畳間へ流れ込んだ。 壁の中には、人ひとりが横向きになれば辛うじて進めるほどの空洞があった。左右には柱が立ち、灰色に変色した断熱材が垂れ、細い水道管と電線が奥へ伸びている。懐中電灯の光は数メートル先まで届いたが、人影はなく、女が何人も隠れられる幅もない。床代わりの梁には埃が厚く積もっており、たった今誰かが逃げたような擦れや足跡も見えなかった。「いない……」 奈々香が胸元を押さえた。安堵しかけた声だったが、美月は空洞から目を離さず、さっき三つ以上の声を聞いたと静かに確認した。人間がいたなら板を外す間に奥へ移動したことになるが、複数人がこの狭さを通れば、断熱材や埃に何か残るはずだった。蓮司も同じ考えらしく、床と柱の接触部へ光を走らせたあと、眉を寄せた。「俺が入る」 朔は小型カメラを胸元へ固定し、身体を横へ向けて空洞へ滑り込んだ。澪が呼び止めると、数メートルだけ確認し、何か見えても追わないと返す。暗い隙間へ消えていく背中を見送りながら、澪は胸元の手帳を服越しに押さえた。そこには、音楽室で見つけた澄花の字がまだ隠されている。〈朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない〉という一文は、見せる機会を逃したまま、彼を信じたい気持ちと疑うべきだという警戒の間に重く挟まっていた。 壁の中で衣擦れが響き、やがて朔が「見つけた」と声を返した。戻ってきた手には、掌ほどの黒いスピーカーがあった。背面には人感センサーと小型電池があり、壁内部を通る細い配線へ接続されている。朔が電源を入れ
夕方の常世荘は、あまりにも普通だった。七刻女学校のように山の闇へ隔離されているわけでも、立入禁止の鎖が巻かれているわけでもない。古い住宅街を横切る細い道路には買い物帰りの自転車が走り、少し離れた公園では小学生らしい子どもたちがボールを追いかけている。夕食の支度をしている家から焼いた魚の匂いが漂い、犬を連れた老人が常世荘の前を何の警戒もなく通り過ぎた。その日常の中央に、築四十年以上の二階建て木造アパートは何食わぬ顔で建っていた。 黄ばんだ外壁には雨垂れの黒い筋が幾つも走り、鉄製の外階段は錆びて赤茶色に変色している。二階へ渡る廊下の手摺には住民が干した小さなタオルが揺れ、建物脇の駐輪場には子ども用の自転車まで置かれていた。昨夜までいた廃校のような、近づくだけで人を拒絶する圧迫感はない。だからこそ澪には怖かった。七人の女性が消えた部屋のすぐ下で、誰かが普通に夕飯を食べ、風呂を沸かし、明日の仕事を考えながら暮らしている。「写真より、ずっと普通だね」 奈々香が小さく言った。借りた衣服へ着替えてはいたものの、左耳にはまだ薄いガーゼが貼られており、疲労の残る顔にはほとんど化粧がない。常世荘を見上げるたび、無意識に髪を耳の後ろへ押し込んでいた。「普通の建物ほど、住み続ける理由ができる」 蓮司が答えた。黒いジャケットの下には調査用の薄いベストを着込み、手には小型の計測器と書類鞄を持っている。「先に言っておくが、俺は呪いに付き合うために来たわけじゃない。妹がここへ来た可能性を調べる。それだけだ」「七日間は泊まらない?」 奈々香が訊くと、蓮司は視線だけを向けた。「要求した相手が人間なら、従う理由はない」「七刻女学校でも、それで済まなかった」 悠斗が低く返した。「だから今回は、何が人間の仕掛けで、何が違うのか最初から切り分ける」 朔が常世荘の屋根と外壁へ視線を走らせる。仕事用の小型カメラは胸元へ固定されていたが、七刻女学校を出てから澪はその赤い録画表示を見るたびに、胸の内側へ小さな棘が刺さるようになっていた。澄花の楽譜に残されていた一文は、まだ手帳の中へ挟んだままである。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 見せるべきかと何度も考えた。だが、透を殺す装置に朔の技術が使われていたこと、八年前のカメラと同じ識別番号で今夜の映像が記録され